12月下旬は「原発の是非を問う都民投票条例」制定を求めた署名活動のために、他市の応援に行っていました。府中市では市長選があり活動できないためです。道行く人々に協力を呼びかけながら「有権者の50人に1人の捺印と生年月日が必要な署名」の重みと厳しさを感じていました。
あれほどの事故が起きながら、数々の不透明な情報隠しやお金のばら撒きが明るみになりながら、原発を作るような大企業の利益が国の利益といわんばかりの原発推進政策は改められません。そんな「復活」や「復興」をやめさせたい、とだれもが3・11以降感じたと思っていましたが、体制の巻き返し、逆風を感じさせられた年末でした。
私たちはどう対峙するのか、できるのか。昨年の11月4日の「毎日新聞(夕刊)・特集ワイド」の柄谷行人さんの、この国の近代史における資本と民主主義のありかたを語ったインタビュー記事がとても印象に残っています。
大きな被害を流域にもたらした「足尾銅山」も放射能汚染の「原発」も国策民営ですすめられ、銅は戦争の砲弾に使われたし、原発は核兵器のための技術確保が裏にはある、と。そして「…戦争にも原発にも経済合理性はないが、止められない。そして戦争では軍需産業が、原発では電力など関連業界が儲かる」「だから資本、国家の論理に巻き込まれないために、市民は『ノー』といい続けることが必要」と強調します。
『ノー』の表し方は、代議制のもとでの投票だけではダメで、デモのような直接行動でないと実現しないと言い、哲学者の故・久野収さんの「デモのような直接行動がなければ、民主主義は死んでしまう」という言葉を引用されています。
原発で電力を確保して経済大国日本を復活させるという道ではなく、別の意味の「豊かさ」を展望する年にしたいのですが、行動が問われているのだと何度もこの記事を読み返して思います。原発や地域エネルギーの問題だけでなく、府中市の再開発、ごみ(廃棄物)問題、生活に密着した貧困、介護、教育の問題…どう対峙するのか、問われる課題はつながっています。